敵ではない、しかし仲間にはなれないという立場のむずかしさ
外食、アパレル、流通、メーカー。
毎週それぞれの企業に赴いて社内マネジメントをはかる日々ですが、事業は違えど課題の根は共通するものですね。感情論を抑えさせ、論理的に解決に挑むのですが、常に一振りの同意がなければ動機が走りません。妙をつかむのは難しいけど、ここを捉える挑戦が楽しい。— 青木永一 (@EiichiAoki) November 1, 2022
今年も間もなく暦が終わろうとしているけど、仕事の課題が終わりを迎える気配は一切感じない……
課題が一進一退を続ける状況は、自分の力不足であることは十分に認識している。だからと言って落ち込むほどバカでもないし、取り組み続けるしか選択肢がないため、こうやって静かに独り言を書きとめることは 気持ちを整えるには打ってつけだ。
私が依頼先の会社に介入するときは、さまざまな事情がすでにこじれている状態にあることが前提となる。
つまり、問題の根が深い。
その原因(らしき)の多くが、人に起因するものであるため、とても難しく厄介なのだ。
なぜなら、不信や不満、不安のような心理的……いや、怨念と言っても過言じゃない感情が 社内のあちこちでグツグツと煮え立っているため、誰の何から手を付けはじめればいいのかを捉えるだけで、かなりの時間を要すからだ。
「人に起因する」と書いたが、本当の原因は 機能的な社内環境整備を放置し続けてきたことが多いように思える。
怨念のようなものは、そこから派生した現象にしかすぎない。
ならば、機能的な環境整備からさっそく手を付ければ事態は効率よく収束するかといえば、そんな単純な話ではない。
なので、一筋縄ではいかない「怨念」と表現した。
怨念のような類は、原因が解消されたからといって、ただちに解決するような機械的な構造をしていない。
絡まった怨念は、時間をかけて丁寧にひも解かないとならない。
外部から来た どこの馬の骨とも知れないやつが、グツグツと煮え立ったキモの部分にいきなり手を突っ込むのは どう考えても粗療法すぎる。
なぜそうなったか、その時にどうしてほしかったのか、どのように積みあがっていったのかなど、その経緯を共に整理し、私からの歩み寄りと理解を示しながら現状を正しく把握することに努めることを第一歩目としなければならない。
そうして、じわじわと自責に返せるよう筋道の設計と言葉を選ぶのだが、自分の性格的に歯がゆくなることばかりだ。
「やってられるかっ!」と投げ出したくなることは何度もあるが、ほんのひと振りの同意、理解を示してあげることで、相手の表情が和む瞬間がある。その連続の先に、変革の動機の火が灯る可能性を知っているため、あきらめずにタイミングを推し量り続けられる。
敵意は、隙あらば簡単に私にも向けられるため、冷静な表情と飄々たる姿勢で知的さを「装う」ことで避けなければならない。とはいえ、冷淡だとコミュニケーションはままならず、かと言って温情的では 情に絆(ほだ)されてしまう自分の脆さを自覚している。
このような背景から、タイトルにもあるとおり「敵ではない、しかし仲間にはなれない立場のむずかしさ」に悶々として悩ましくもあるが、それでもやはりこの仕事が好きだから続けてこられたし、これからも続けるのだろうと思う。
個人的な性格は厳格に隔離し、飄々、淡々、粛々と理想の自分をますます演じることに努めよう。