自分を動詞一言で表すと生き方の腰が据わる。
昔、何かで目にした記事に、自分を動詞で表現することの重要性が書かれていた。
君の動詞はなんだ?
どのような動きが自らを表現するのか?
たしか、このような問いだったと記憶している。
これらの問い、自己PRに「核」が出来るとも書かれていた。
たとえば、
信長なら「こわす」。
秀吉なら「ひろげる」。
家康なら「おさめる」。
龍馬は「むすぶ」。
仏は「ほどく」。
言い得て妙とはこのこと、たしかに「核」を感じる動詞表現たちだ。
さらに、
動詞一言で表現しきっておくと、これから自分がやろうとしている行動についてもブレない予防線になる、そう書かれていた……いや、自分が勝手にそう解釈したのかもしれない。昔のことなので記憶があいまいだ。
歴史に名を遺した偉人たちが、自分を動詞一言で表現していたかどうかはわからないが、後世に生きる私たちが物語りに思いを馳せるとき、挫折と自暴自棄になった日々もあるだろう……そんな想像を差し引いても、「ブレない」は正しい評価ではないだろうか。
「ブレない」は、長期的な時間軸でその姿勢を判断すべきで、過程における挫折や自暴自棄などは、物語りにドラマチックな要素を与えるものと判断するのが、評価を間違えないと考えている。
さて、
自分に向かって「動詞一言で表すと何だ?」と、問いを立ててみたが、なかなか適した動詞を見つけることができない。
いろいろと思いつくまま動詞を捻(ひね)り出すも、どれもフィットする感覚がなく違和感を満たすばかりだ。
そんなことを考えていることを知った友人があるとき、「青木さんは『深める』だと思いますよ」と、とても気さくに優しく言葉をかけてくれた。
改めて、評価は他者がするものだと実感した瞬間だ。
臆することなく、「たしかにその一面はある」と自覚したと同時に、とても救われた気持ちになったことを憶えている。
なぜなら、
随分と長い間、早朝を利用し、人知れず自分と対話することを続けているからだ。
さらに、自分との対話で浮き彫りになった言葉たちをかき集めるように、書き綴ることを日課としているからだ。
なぜ、自分と向き合い言語化に努めるのか。
まぎれもなく、自分の「浅はかさ」を実感しているから他ならない。そんな、どうしようもない「浅はかさ」を叩き潰すかのように、対峙の中で自分の思考を削り込み、言語化に努め、記録し、一周して浅はかさに叩きつける。
この習慣が心地よいのだ。
それだけではない。
実は自分の息子たちへ、父親が生きた過程を知らしめる遺言として書き残しておきたいというシタゴコロもある。
そのおかげで、書き綴っているメモの数が 4,000を超えるまでに至る始末だ(2023年11月25日 現在)。
「浅はかさ」と「深さ」を、自分の中に同時に抱えることは、矛盾であり対立に違いないだろう。
しかし、その状態を肯定的に捉えるべきだと捉えている。
なぜなら、矛盾を抱き込み、双方を積極的に向き合わせることこそが、自分の可能性に対する挑戦のスタート地点になると実感しているからだ。
なによりも、矛盾こそが自分との対話ネタになることは間違いない。
自分と対話し、矛盾したもの同士の落としどころを模索しながら、バランスが取れた場所を底地とするまでの言語化を「深さ」と定義している。
戦国武将や幕末の志士たちの成果は、内包した矛盾との対話の末の葛藤から生まれた行動なのかもしれない。言い換えれば、裏側に潜む真逆な動詞が生み出した反動ではないだろうか。
自分の中の矛盾と静かに対話することが、自分の動詞表現を見つける「はじめの一歩」に違いない。
そして、「たしかに」と思えるほどの自分に合った動詞が見つかったとき、生き方の腰が据わる。
独り言に過ぎないこの文章が、誰かさんの今とこれからの自分をマネジメントする一助になれば幸いだ。