はじめに
私の住む大阪は、俗に「食い倒れの街」と呼ばれ、旨くて安いお店があちらこちらに点在しています。
もっとも、これから語る大阪らしさは、今の大阪を正確に説明するものではないのかも知れません。私の中に染みついているのは、昭和の匂いを残した大阪です。
その街で育ったお客側にも、少し独特の楽しみ方がありました。安くて旨い店を知っていること。テレビには決して登場しないけれど、地元の人に長年親しまれているなじみの店を持っていること。あるいは、そのお店でどれだけお金を使ってきたかを、少し自慢げに語れること。
そんな他愛もない話に、妙な誇らしさが宿っていたように思います。
ナイフとフォークで背筋を伸ばしていただく「美味しい」も、それはそれでよいものです。ただ、大阪では、安い値段の割に「絶妙に旨い」と感じられることに、どこか土地柄に合った気持ちよさが混じります。
もうひとつ、大阪には「どれだけ安く買えたか」を自慢する文化もありました。ともすれば、「店側に損をさせたぞ」とうそぶく、お客側としてのプロ根性が顔を出すこともある。私は、そういうところにも大阪独特の、実に愛おしい個性があると考えています。
実のところ、お客は「得した」と機嫌よく帰り、お店側は商いをしっかりと成り立たせて見送っている。その絶妙なすれ違いの中にこそ、商売の神髄が隠れているのではないかと、私は考えています。
言うなれば、お客側は、お店側の手のひらの上で、心地よく「勘違いの勝利」を味わっているのかも知れません。
それでも最後は、どちらも機嫌よく終わっている。
これを大阪的なWin-Winの関係と呼んでも、そう外れてはいない気がします。
「味で勝つ」を捨てるとは、何を捨てることなのか
ここからは「食い倒れ」にちなんで、店内で食事をする小さな飲食店を思い浮かべながら話を進めます。
章タイトルでは「味で勝つ」を捨てると書きましたが、もちろん味を捨てるという意味ではありません。
問いたいのは、「味こそが勝因である」という思い込みです。
もっとも、飲食店にとって味は大切な土台です。ただ、土台をそのまま一番のウリにしても、長く通う理由にはなりにくいと考えています。
漫才や落語で言えば、滑舌のよさやセリフを噛まないことは、芸以前の土台です。しかし、それだけをウリにされても、観客はファンにはなりません。そこから先の間合いや仕掛けに、芸と呼べるものが宿るはずです。
飲食店も、これに近いところがあります。
今は、好みの違いこそあれ、どこのお店も一定以上の味を出します。冷凍食品でさえ驚くほどよくできていて、少し手を加えれば、お店の味にも引けを取らないと感じることさえある時代になりました。
そんな中で、お客が気づかない隠し味を追求し続けること自体は、技として磨けばよいでしょう。ただ、お客が本当に持ち帰っているものを見ないまま、店側の満足だけで技を磨き続けると、商売としては少し滑稽に映ることがあるのではないでしょうか。
味は、長く通うための目的というより、通い続けるための前提に近いものです。
一度行って「美味しかった」と感じたのに、その後は久しく足を運んでいないお店は、誰にでもいくつかあるはずです。反対に、特別に何が突出しているわけでもないのに、なぜか何度も行ってしまう店もある。
そこに、なじみとして選ばれる理由の奥側が隠れているように思います。
なじみの店は、お客を負けた気分で帰さない
なじみのお店とは、言うならば、自分の居場所のようなものです。
そこに通うお客は、料理だけを目当てにしているわけではありません。注文を急かされない間、店主の声の大きさ、常連同士の会話、覚えているようで覚えていないくらいの距離感。そうした小さなものが重なって、また来てもいいと思える空気ができあがっていきます。
わずかばかりの「しがらみ」さえ、心地よさに一役買っていることがある。ここが、なじみの店の面白いところです。
そう考えると、飲食店は料理を出すだけの商売ではなく、空間を整える商売でもあるように思います。
お客は、店に勝ちたいわけではありません。
ただ、負けた気分で帰りたくないのです。
ここを見落とすと、お店側の丁寧さが、お客には別のものとして届いてしまうことがあります。
たとえば、お客同士の会話が温まっているところへ、よかれと思って料理の説明を差し込んでしまう。お店側からすれば丁寧な対応でも、お客からすれば、自分たちの時間を少し奪われたように感じることがある。
ここに、店側の「勝ち」が、お客の「価値」に変わらない怖さがあります。
大切なのは、店側の都合が通ったことを勝ちと勘違いしないことです。お客がまた来たくなる「何か」を持ち帰れたのか。そこまで捉えてこそ、なじみになる理由は育っていきます。
もちろん、すべてのお客に合わせる必要はありません。むしろ、それをしようとすると店の輪郭がぼやけます。静かに過ごしたい人のための店なのか、店主との会話も含めて楽しむ店なのか、ひとりでふらりと寄れる逃げ場なのか。自店にとってのお客が曖昧なままでは、どれだけ味を磨いても、なじみになる理由は育ちにくいように感じます。
その意味で、いわゆる大阪的なお客は、なかなか手厳しいご意見番になります。いらないものはいらないと言い、だめなものはだめと伝える。耳の痛い相手ですが、盲点を突いてくれる存在でもあります。
ただし、その声さえも、自分の店が誰に向けた店なのかが定まっていなければ、ただのノイズになってしまう。まずは店主自身が、自分の店のお客になってみる。そのうえで、手厳しい声をバランスよく取り入れるくらいが、なじみの店を育てるうえではちょうどよいのではないでしょうか。
お客側のプロ根性とは、単に安さを求める姿勢ではありません。値段、味、空気、距離感、店主の人柄、会計後の気分まで含めて、「この店はまた来るに値するか」を、かなりシビアに見ているということです。
お店側がよかれと思っていることが、お客には押しつけとして届いている。そのズレに気づかないまま、一度来てもらっただけで終わってしまうのか。
それとも、お客のホンネから学び直し、また来たくなる理由を育てながら、お客と一緒に勝っていくのか。
その選択肢は、お店側の手の中にあります。
おわりに
食い倒れというのは、それなりの理由と価値があるから、食に散財してまで倒れるのでしょう。
大阪は商売の街であり、とても手厳しい客のプロが存在します。安ければ何でもよいわけではなく、旨ければすべて許されるわけでもない。お客はお客なりに、自分が気持ちよく過ごせたのか、また誰かに話したくなる店なのかを見ています。
あなたのお店は、お客側が食い倒れるに値するでしょうか。
新しいお客を呼び続けることは、もちろん大切です。けれど、小さなお店の繁盛は、一度来た人の中に小さな未練を残し、いつの間にかなじみになってもらうことの中にあるように思います。
強いものが勝ち残るのではなく、お客から選ばれ続け、残ったものが強い。
ただ、その強さは、ある日突然できあがるものではありません。いまのやり方を疑い、目指したい店の姿に近づけていく。その手がかりは、店主が聞けている声よりも、まだ聞き取れていないお客の声なき声にあるのかも知れません。
味を磨くことは、もちろん大切です。けれど、その味を通して、お客にどんな居場所を渡しているのか。そこまで考え抜いたとき、小さなお店はようやく、誰かにとっての「なじみ」になっていくのではないでしょうか。
青木 永一

著者プロフィール
青木 永一|ベルロジック株式会社 代表取締役
経営学修士(MBA)。事業者向け金融の実務経験をもとに、
中小企業の経営改善、事業再生、管理会計導入、組織づくりを支援。
財務・法務の視点を活かし、経営者の意思決定を支える。
