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変革のつまずきに学ぶ、次の現実のつくり方

歴史を白黒の世界として見ない

もう何年も続いている日曜朝のオンライン学習会で、今回、友人が語ってくれたテーマは、ルーマニア革命とチャウシェスクでした。

 

チャウシェスクは、農民の家庭に生まれ、のちにルーマニア共産党の指導者となり、長く国を率いた人物です。強権的な統治の末、1989年の革命によって体制は崩れ、妻とともに処刑されました。

 

ただ、独裁者を葬ったからといって、ただちに理想の社会が訪れたわけではありません。現状を壊すことと、そこから次の現実をつくることは、まったく別の営みだからです。

 

その話を聞きながら、あらためて、歴史を学ぶときの視点について考えました。

 

遠い国、遠い昔の出来事を、映像でよく観る白黒の世界のように見ていると、どこか自分たちとは切り離された、別次元の出来事のように感じてしまうことがあります。

 

けれども、映像が白黒であったとしても、そこに映っている人たちが生きていた現実まで白黒のはずはなく、私たちが見ている空や花、街の壁の色と同じように、その人たちの現実も色づいていたはずです。

 

ただ、そこに思いを馳せながら、もう一つ意識しておきたいことがあります。私たちは、顛末を知ったうえで歴史を学んでいるということです。

 

数年、数十年にわたる出来事を、映像であれば数十分、書物であっても数十ページ、数百ページで理解したつもりになる。

 

しかし、当事者にとっての一年も、私たちと同じ365日だったはずです。歴史として数行で語られる出来事にも、実際には一日一日の積み重ねがあり、その都度、迷いや判断があったはずです。

 

歴史として出来事を眺める私たちは、その一日一日の迷いや制約を飛ばして、結果から問いを立ててしまいがちです。

 

なぜ、もっと早く変えられなかったのか。

なぜ、そんな非合理な判断をしたのか。

なぜ、人々は従い続けたのか。

 

しかしそれは、自分の生活の安全が十分に保証された環境から、過去を眺めている者の問いなのかもしれません。

 

環境は、合理と論理を変える

歴史上の出来事の渦中にいた人々にとっては、現代の私たちから見れば不可解な判断であっても、その時点で選びうる、もっとも現実的で合理的な判断だった可能性があります。

 

人がどれだけ先の未来を考えられるかは、その人の能力だけで決まるものではありません。置かれた環境によって、考えられる時間の幅も、選びうる打ち手の幅も変わっていきます。

 

明日の命が無事かどうかも分からない環境にいる人が、三年後のビジョンを当然のように描けるでしょうか。むしろ、来年の計画を立てようとしている私たちの姿を見て、何を悠長なことをしているのかと感じるかもしれません。

 

これは、どちらが正しいかという話ではなく、置かれた環境が違えば、合理の形も変わるということだと考えています。さらに言えば、何を前提にし、どのような順番で物事を考えるのかという論理の組み立て方にも、環境は強く影響します。

 

だからこそ、歴史を学ぶときには、二つの視点を行き来することが大切なのだと考えています。

 

一つは、当事者の肌感覚に近づこうとする主観の視点。もう一つは、構造を俯瞰して見る客観の視点です。

 

主観だけでは、当事者の苦しさを感じ取れたとしても、構造を見落とすかもしれません。反対に、客観だけでは、そこにいた人々の恐れや迷いの臨場感を置き去りにしてしまう。

 

私がここで考えたいのは、力を持つ人の影響力やその配置が、周囲の判断をどう変えていくのかということです。誰がどの位置にいるかによって、見えている情報も、取れる選択肢も、背負っているリスクも変わります。

 

そしてその構造は、組織の中にも存在しています。

 

同調は、納得とは限らない

強い影響力を持つ人のもとでは、人は必ずしも自由に判断しているわけではありません。従っているように見えるからといって、納得しているとは限らない。反論や、場合によっては強い反感すら持っていることもあるでしょう。

 

しかし、抗うだけの力がないと自覚しているとき、あるいは抗うことのコストが高すぎると感じているとき、人は同調を装います。そこには、身を守るための計算だけでなく、「まともに向き合うこと自体がばかばかしい」という諦めにも似た見切りが潜んでいることがあります。

 

それは単なる思考停止ではありません。自分の生活を守るために無関心を装っている場合もあれば、組織が弱っていくことをどこかで望んでいる場合さえあります。

 

そのような組織で、リーダー的な立場にいる人がどれだけ未来を語ったとしても、その言葉は希望として届きにくいものです。むしろ、「また都合のいいことを言っている」と、反感をもって受け取られることさえあります。

 

そのような現場にとって、現状を共有していない人から語られる未来は、どこか遠くから聞こえてくる戯言のように響くことがあります。関心が向かうのは、未来よりも、今抱えている不満や不信です。

 

変革とは、次の現実をつくること

ここで混同したくないのは、「今の状態は嫌だ」という不満と、「次はこうありたい」という希望は、まったく次元の異なるものだということです。

 

現状への否定には、たしかに力があります。人を動かす熱にもなる。
しかし、それは変革の種火にはなったとしても、変革そのものではありません。

 

変革とは、壊すことではなく、次の現実をつくることです。

 

現状を壊したあと、その理想を誰が、どのようにして現実にしていくのか。そこまで見えていなければ、冒頭で触れたルーマニア革命後の混とんのように、変革もまた混とんの入口になり得ます。

 

ここで考えたいのが、変革にはフェーズがあるということです。

 

0を1にする力と、1を10にする力、そして10を100にする力は、連続しているようでいて、求められる能力の質がまったく異なります。

 

自分を変えるか、次の人へつなぐか

とりわけ難しいのは、フェーズが変わったときに、自分自身の前提を変えられるかどうかです。

 

これまでの成功体験をいったん脇に置き、学び直し、判断基準を更新できるか。それとも、次のフェーズに必要な能力を持つ人へバトンをつなぐのか。

 

変革が一人では成しえないというのは、必ずしも、能力の異なる誰かへ任せるという意味だけではありません。経験の解釈も、能力も、判断基準も更新されないまま、すべてのフェーズを進めることはできない。私は、そのように考えています。

 

ここを見誤ると、変革はいつの間にかワンマンの延長になります。

 

ワンマンの問題は、決断が速いことそのものではありません。むしろ、局面によっては、迷わず決められることが物事を前に進めることもあります。

 

問題は、自分が有効だったフェーズを越えてもなお、同じ立ち位置、同じ判断基準、同じ影響力のまま進められると過信することです。

 

その過信があると、周囲の静けさを都合よく解釈してしまいます。反対意見が出ないことを、納得している証拠のように受け取ってしまう。

 

沈黙は、合意ではない。

同調は、忠誠ではない。

 

こうした状態のまま進めば、変革は前に進むどころか、次の破壊の種を生みかねません。

だからこそ、ここであらためて、変革という言葉の真意について考えたいのです。

 

それは、何かを壊すことでも、未来を語ることだけでもありません。その後にどのような現実をつくるのか。そして、その現実をつくるために、自分が何を学び直し、何を手放し、誰につなぐのか。そこまで含めて、変革ではないのでしょうか。

 

では、自分はどう向き合うのか

ここまでの話は、歴史の話でも、特別な組織の話でもありません。中小企業の経営の現場でも、同じ構造が日常的に起きています。

 

中小企業の場合、これは特に難しいことかもしれません。

 

自分で興した会社であればなおさらです。誰かに任せる、役割を渡す、判断を委ねるということは、簡単に選べるものではありません。

 

だからこそ、あらためて問い直しておきたいのです。

 

そもそも、自分が興した会社で、自分は何を実現したかったのか。

今はどの局面にいて、自分にはその局面に必要な力が備わっているのか。

次のフェーズを見据えて、その力を持つ人材を育ててきたのか。

あるいは、会社の目的を、もっと自分個人の生活に根差したものへと見直す時期に来ているのか。

 

変革とは、大きな理想を掲げることだけではないのだと思います。

会社を支えている人、さまざまな制約、そして目の前にある現実と真摯に向き合うこと。

そのうえで、次の現実をつくっていくこと。

それが、正直に経営するということなのかもしれません。

 

 

皆さんの経営の現場では、次の現実をつくる準備は、もう始まっているでしょうか。

それとも、準備のないまま、理想だけを掲げ、現実を置き去りにしてはいないでしょうか。

 

青木 永一