わからなかった者にしか、教えられないことがある ——「わかったつもり」が、組織を鈍らせる
わからなかった記憶は、捨てないほうがいい
誰にでも、一度はあるのではないでしょうか。
参考書を読んでも、先生の説明を聞いても、どうしても腑に落ちない。言葉は追えているのに、頭の中ではつながらない。
苦しいのは、わからないことそのものより、「その説明では、わからない」という苛立ちのほうかもしれません。
私にも、科目は違えど、そういう経験がありました。
だからこそ、かつての自分を相手にするつもりで考えるのです。どう伝えれば、いちばん理解しやすいのか。どう説明すれば、「あ、そうなんだ」と腹に落ちるのか。
そうやって説明を組み直していく時間が、振り返れば、いちばん自分の理解を深くしていたように思います。
得意なことを話すのは、案外たやすいものです。一方で、苦手の中には、その人の理解の穴も、癖も、逃げ方も出ます。
厄介です。
けれど、育成の手がかりは、むしろそこにあります。
わからなかった者にしか、教えられないことがある。
私は、そう感じています。
説明しようとした瞬間に、理解は試される
苦手なことを誰かに説明しようとすると、入念な準備が必要になります。自分ではわかったつもりでも、人に伝えようとした瞬間に、曖昧だった部分が姿を現すからです。
相手から、
「それは、なぜそうなるのですか」
と問われる場面を想像し始めたら、学びはそこで一段深くなります。質問が思い浮かぶのは、自分の理解が、より深いところへ入り始めた証でもあるでしょう。
そして実際に教える場では、想定していなかった問いが返ってくることもあります。そういう場面でこそ、自分の理解がどこまで届いていたのかが、はじめてよくわかります。
問いに向き合い、説明をやり切り、相手の納得が返ってきたとき、自分の中にも小さな手応えが残ります。知識が増えたというより、自分の理解を、自分の手で組み直せたという手応えです。
こうした手応えは、あとで振り返れるように残しておく価値があります。
上手く話せることより、どこで止まるか
このことは、個人の勉強法にとどまりません。教育施策の設計にも、そのまま応用できるはずです。
たとえば新人教育の一環として、少し慣れてきた頃の社員に、
「自社にとって顧客満足とは何か」
「クレームへの適切な対応とは何か」
を説明してもらう。
そういう設計も一案でしょう。
少し先輩になったつもりで、入社したばかりの頃の未熟な自分が目の前に座っている想定で話してみる。お題を変えながら同僚同士で繰り返せば、質問は自然と飛び交うはずです。
ここで大切なのは、最初から上手くやれることを期待しすぎないことです。
見たいのは、話のうまさではありません。
どこで説明が止まるのか。
どこで言葉が曖昧になるのか。
どこで質問に返せなくなるのか。
見たいのは、そこです。
つまずきが見えるほど、育成は前に進みます。少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、育成とは、完成した知識を渡すことではなく、理解の穴を見つけ直す営みでもあるからです。
人は、つまずきを隠し始めたときから育たなくなる。
問題は、つまずくことそのものではありません。それを見せないこと。見せられないこと。そして、周囲からも見えなくなっていくことです。
歓迎したいのは、準備の末のつまずきである
ただし、ここには大切な線引きがあります。
歓迎したいのは、真摯に準備し、向き合ったうえで露呈したつまずきです。
準備不足から起きたつまずきまで、
「見えたからよし」
としてしまえば、話は変わります。つまずきを責めないことと、取り組みの浅さを見逃すことは、似ているようでまったく違います。
以前、改善提案の勉強会と称しながら、発表が始まって数分もしないうちに、最後まで聞かず、否定から入る場面を見たことがあります。
ああなると、場はもう学びの場ではありません。残るのは、萎縮と説教だけです。
厳しさが不要なのではありません。厳しさの向け先を間違えないことです。
責めるべきは、つまずきそのものではなく、つまずきを曖昧なまま流す姿勢のほうです。
そして、そこで見たいのは、整った答えではありません。
見たいのは、思考の痕跡です。
どこで迷ったのか。
どこで引っかかったのか。
何を言い換えようとし、どこで断念したのか。
次の改善策は、たいていそういう痕跡の中にあります。
学ぶ側は、新人だけではない
こうした機会は、新人だけのものではないはずです。環境変化の激しい時代には、新人も古参も関係なく、自分の理解度や知識を棚卸しする機会が必要です。
古参が若い世代から質問を受けることを想定すれば、人知れず調べ直すこともあるでしょう。その緊張は、悪いものではありません。むしろ、先輩風を吹かせるだけでは済まなくなる。そういう時間が、世代ギャップの壁を少しずつ低くしていきます。
誰が教える側で、誰が学ぶ側か。
その線を固定しすぎると、組織は鈍くなります。
教える側だと思っている人ほど、問い返される場が必要なのかもしれません。
わかったつもりが、組織を鈍らせる
ただ、こうした施策は、会社の懐事情が厳しいときほど後回しにされがちです。それもまた現実でしょう。
しかし、人材育成を疎かにしていけば、学習力が落ちる。コミュニケーションが痩せる。意思決定が粗くなる。結果として、ますます苦しくなる。この連鎖もまた、現実です。
財務が苦しいから育成ができないのか。育成を疎かにするから財務が苦しくなるのか。
おそらく、どちらも本当です。
だからこそ問われるのは、因果の正しさより、何を先に守るかという決断ではないでしょうか。
余裕がないときに、何を削るかが組織を決めます。教育施策の設計とは、経営判断そのものでもあるはずです。
わかったつもりが、組織を鈍らせる。
少し強い言い方かもしれません。それでも、あながち大げさではないと思います。
人は、わかったつもりになると、問い返さなくなる。確認しなくなる。教え方を見直さなくなる。そうして、組織は静かに硬くなっていきます。
一方で、誰もが学ぶ立場にいることを忘れてはならない。そう感じている組織には、規律と謙虚さが根づきます。
わからないことを早く聞ける。教える側も、断定で押し切らない。つまずきを隠さない。そういう組織には、むしろ強い規律が宿ると、私は思っています。
学習が大切だということは、誰もがわかっているはずです。ただ、わかるとできるは違います。そして、できるとできたも、また違います。 この差を埋める営みを、現場の中に持てているかどうかです。
ご自身の会社は、この先も発展していく根拠を、人材育成の現場に宿せているでしょうか。その根拠を、誰にでもわかる言葉で、ご自身は説明できるでしょうか。
矛盾はないか。
穴はないか。
その問いに向き合ったとき、自社が積み上げてきた確かさと不確かさが見えてくるはずです。
青木 永一

著者プロフィール
青木 永一|ベルロジック株式会社 代表取締役
経営学修士(MBA)。事業者向け金融の実務経験をもとに、
中小企業の経営改善、事業再生、管理会計導入、組織づくりを支援。
財務・法務の視点を活かし、経営者の意思決定を支える。
