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似て非なるものを見抜く力 ―― 自分が“まやかし”にならないために

似ていることと、同じであることは違う

「似て非なる」という言葉があります。

 

表面上は似ているものの、本質は異なる。
一度は「たしかに似ている」と受け止める余地を残しながら、最後には「やはり違う」と結論づける言葉のように思います。

 

一方で、「似ても似つかない」という言葉もあります。
こちらは、最初から似ているとは認めない表現です。受け入れる余地を置かず、のっけから違うものとして退ける強さがあります。

 

この二つの違いは、案外大きいのではないでしょうか。

 

「似ても似つかない」ものは、最初から違うとわかるため、見誤る余地はそれほど多くありません。

 

厄介なのは、むしろ「似て非なる」ものです。

 

最初はそれらしく見え、一瞬はこちらも受け入れてしまう。
だからこそ、あとから本質の違いに気づく力が問われます。

 

現場に潜む「似て非なるもの」

仕事の現場には、この「似て非なるもの」がいくつもあります。

 

シンプルであることと、単純でしかないこと。
スピードを求めることと、せっかちでしかないこと。
平然を装うことと、無関心でしかないこと。

 

あるいは、任せることと、放置すること。

 

どれも表面だけを見れば、それなりにもっともらしく映ります。

 

「シンプルに考えよう」という言葉の裏で、必要な検討を省いているだけかもしれません。

 

「スピードが大事だ」と言いながら、目的も目標も曖昧なまま、確認不足を正当化しているだけかもしれません。

 

冷静に対応しているように見えて、実際には関心を失っているだけということもあります。

 

任せているようで、実は見ていない。
信頼しているようで、ただ関わる手間を省いている。

こうしたものも、現場で見過ごされやすい「似て非なるもの」のひとつです。

 

もっともらしさは、深さを保証しない

もっともらしい言葉や態度も、少し掘り下げてみると、根拠や理解が出てこないことがあります。表面だけは整っていても、その下にあるはずの深さがないのです。

 

理解度を確かめたとき。
話を少しだけ掘り下げたとき。
以前に確認したことを、もう一度確認したとき。

 

その人が本当に考えていたのか、それとも言葉だけを合わせていたのかは、案外伝わってしまうものです。特に、再確認したときにまるで他人ごとのように記憶が残っていない場合、そこには知識不足だけでは片づけられない、仕事への向き合い方の浅さが表れます。

 

もちろん、知らないことや記憶が曖昧になること自体を、問題にしたいわけではありません。経験が足りないことも、理解が追いついていないことも、仕事をしていれば当然あります。

 

問題は、知らないことや記憶が曖昧であることそのものではなく、それに気づきながら確かめもせず、知っているように振る舞い、理解したような顔でその場をやり過ごしてしまうことにあります。

 

そこに、まやかしが生まれます。

 

まやかしを見抜く観察力と質問力

では、そのまやかしに翻弄されないためには、どのような力が必要なのでしょうか。

 

おそらく、経験に基づいた観察力と、知識に基づいた質問力です。

 

観察力とは、相手の言葉だけではなく、その後の行動を見る力です。言っていることと、やっていることがつながっているか。その場限りの受け答えではなく、時間が経っても判断や行動に反映されているか。そこを見なければ、見た目のもっともらしさに引っ張られてしまいます。

 

質問力とは、相手を追い詰める力ではありません。根拠を確かめ、前提を確認し、どこまで理解していて、どこから先を曖昧にしているのかを静かに見極める力です。

 

この二つがなければ、シンプルに見えるものを、考え抜かれたものだと思ってしまう。速さを、実行力だと勘違いしてしまう。落ち着いた態度を、信頼できる冷静さだと受け取ってしまう。

 

まやかしが厄介なのは、「似ても似つかない」ものとして現れるのではなく、「似て非なる」ものとして現れるからです。

 

本当に怖いのは、自分がまやかしに見えること

ただ、ここで終わってしまうと、話は他人の評論だけになります。
本当に向けるべき問いは、そこから先にあります。

 

自分がまやかされたのであれば、まだ反省できます。

 

自分の観察が足りなかったのかもしれない。
質問が浅かったのかもしれない。
経験や知識の使い方が甘かったのかもしれない。

 

そう受け止め、次に備えることはできます。

しかし、もし相手が私に対して「まやかされた」と感じたなら、話はまったく違ってきます。

 

その信用が回復される可能性は、ゼロに近いと思います。少なくとも、容易には戻らないでしょう。こちらに悪意があったかどうかよりも、相手には「中身があるように見えたのに、実際にはなかった」という強い印象が残るからです。

 

考えているように見えたのに、考えていなかった。
わかっているように見えたのに、わかっていなかった。
自分ごととして受け止めているように見えたのに、実際には場をやり過ごしていただけだった。

 

そう受け止められた瞬間、信用は大きく傷つきます。

 

そして、ここで怖くなるのは、そうした姿を他人の中に見たときほど、自分は本当に違うのかという問いが残ることです。

 

他人の薄さに驚くことがあります。少し確認しただけで、理解の浅さが見えてしまうこともあれば、再確認したときに、まるで他人ごとのように記憶が残っていないこともあります。

 

ただ、そのたびに、こう思うのです。

これは本当に、相手だけの話なのだろうか。

自分は本当に大丈夫なのだろうか。

自分もまた、見透かされていないと思い込んでいるだけではないのだろうか、と。

 

最後に向けるべき目

自分を疑うことは、自分を否定することではありません。

むしろ、信用を守るための点検です。

 

似て非なるものを見抜く力は、他人を評価するためだけのものではないはずです。

 

自分の言葉に中身はあるか。

判断に根拠はあるか。

任せているつもりが、ただ放置しているだけになっていないか。

 

他人の薄さに気づいたときほど、自分の薄さにも目を向ける。

 

その姿勢を失わないことが、まやかしにならずに仕事をするための、せめてもの誠実さなのかもしれません。

 

青木 永一

 

著者プロフィール

青木 永一|ベルロジック株式会社 代表取締役

経営学修士(MBA)。事業者向け金融の実務経験をもとに、
中小企業の経営改善、事業再生、管理会計導入、組織づくりを支援。
財務・法務の視点を活かし、経営者の意思決定を支える。